「reunion 前編」~ジェイシェリ再会のお話三部作・前編
1・
「ジェイク!よかった、やっと通じた!」
シェリーは窓辺の一人掛けソファーの上で膝を抱えながら、思わずと言った勢いで大きく息を吐き、天を仰いだ。
耳に押し当てたPDAーーその小さな機器が繋ぐ向こう側は中東の某国でーーそこに今ジェイクがいる。
「悪ぃ、ちょっと周りに人がーー多くてな。なかなか抜け出せなかった」
聞き慣れた低い声の向こうで、微かに風の音が聞こえる。
「あ…私こそごめんなさい、その、今あなたがいる辺りの情報が入って…心配になっちゃって…」
言いながら、シェリーはすぐそばの小窓を開けた。
夜風が吹き込み、柔らかなブロンドの髪を揺らす。
まるでジェイクと同じ場所にいる様な錯覚を覚えて、知らずうちにシェリーの口元に笑みがこぼれた。
「ま、一年前のアレに比べりゃ、大概の事はまだマシって感じだな」
相変わらずの調子だ。
一年前のーーとは、シェリーとジェイクが出会い、C-ウィルスのワクチンのために共に戦い生き延びた事件の事だ。
あれから一年。電話越しで再会を果たして以来、決して頻繁とは言えないが、電波に乗せた二人の交流は続いていた。
ほとんどはシェリーから、メールや電話を。
それに対するジェイクの返信はというと、あっさりと短いものや、写真一枚などという形がほとんどで、かけてきた電話に至っては一度きりだった。
仕事で出られなかったシェリーは、勿論慌てて折り返したのだが、その内容は「間違って触っちまった」というもので…。
それでもシェリーにとっては、たとえささやかな関わりでも、ジェイクの存在を感じられる時間として、欠かせないものになりつつあったのだが、その事実を、実はシェリー自身は未だ自覚していない。
頬をくすぐる髪を耳にかけながら、シェリーは昼間オフィスで見た映像を思い出していた。
ナパドゥと呼ばれる、太い棘の様な外殻が特徴の大型B.O.Wが、多数ひしめきながら移動している様子を捉えた衛星写真。
ネオアンブレラが開発したC-ウイルスは、混乱の最中いくつかのアンプルが持ち出された形跡が後の調査で発覚していた。
どう流れたのか、中東で暗躍するテロリスト集団がそれを手に入れ、辺境の村でウイルス実験を行った。
住人の多くが悲惨な変異を遂げたが、同時にテロリスト集団も、予想外に制御不能な状況に陥り自滅ーーー結果、化け物だけが荒野に残ってしまった。
近辺の村々をただただ破壊していく死の行進は、管轄するBSAAの中東支部も程なく把握するところとなったが、ちょうど同時期に都市部で展開されたバイオテロの鎮圧に思わぬ苦戦を強いられていた事から、手の回らない状況になっていたのだがーーー
その行進が、今朝止まった。
衛星から送られてきたサーモグラフィー画像に、ある廃墟と化した小さな町と、その瓦礫の中に煌々と明滅するいくつもの光が映し出されていた。
ナパドゥが消滅する際の、発火現象の光だった。
いつもの短いメールのやり取りで、ジェイクが中東にいるのを知っていたシェリーは、咄嗟にこれがジェイクのした事だと直感した。
それから数時間を、信じられない程焦れた気持ちで過ごした後、漸くアパートメントの一室に帰り着いた瞬間から、シェリーは何度もジェイクにコールしたのだった。
シェリーは思い切って問いかけた。
「…食料と水を分けてくれるっていうヤツに出会ったんだよ。あとバイクのガソリンも。そいつと引き換えだ」
そこまで言ったところで、ふとジェイクの声が遠ざかった。
何事か喋っているが…それはシェリーのよく知らない異国語だった。恐らく、今いる現地の言葉だろう。
そう言えば、とシェリーは一瞬考えた。
一年前の、中国の監禁施設を脱出した際も、看板に書かれた文字や、戦闘員が話す内容を、ジェイクはかなり正確に把握していた。
後で聞いたが、監禁生活の中独学で覚えたらしい。
「…ジェイクって、本当にすごいね…」
考えるより先に、シェリーは呟いていた。
膝と膝の間に顎先を埋め、どこを見るともなく視線が揺蕩う。
「シェリー?」
ジェイクの声が聞こえる。
薄ら滲んだ視界が、自らの瞳に溜まった涙をシェリーに教えた。
ジェイクには見えていないことに安堵しつつ、シェリーは手の甲で強く涙を拭ったのだが…
「どうした、何かあったか」
ジェイクが気配に敏感なのは、時差を超えた場所にいても変わらない。
シェリーは慌てて窓の外に向かって咳払いすると、最初の自分のトーンを思い出しながら答えた。
「ううん、ただ、感心っていうか、感動っていうか…ジェイクこそ、スーパーヒーローね!」
「スーパーヒーロー?何だそりゃ、勘弁しろって」
ジェイクが苦笑したその向こうで、子どものものと思しき笑い声が聞こえる。
彼が取り戻した平和が確かにあることを感じると同時に、どこか誇らしい気持ちが束の間シェリーの胸を満たした。
ーーが、その輝きは、同時に今の自分が抱えるジレンマを、否応なしに明るみに引き摺り出すスポットライトにもなった。
「わ、わたし…」
「ん?」
気のせいだろうか。ジェイクの声がひどく優しく聞こえた。
疲れているだろう。そろそろ休ませてあげないと。そんな風に考えている自分と、かたや苦しい胸の内を聞いて欲しいと悲鳴をあげる自分が、同時にシェリーの中に混在している。
そして、ほんの僅かな差で勝利したのは、後者だった。
「…私ってば、ほら、この前メールでもちょっと言ったけど、最近は…"G"の検査とか、そんなのばっかりで。エージェントらしい仕事、全然できてないの。ジェイクが人知れず頑張ってるのに…私は何も」
実際、C-ウイルスの件が収束した後にシェリーを待っていたのは、政府監視下に置かれていた頃に近い日々だった。
ジュアヴォをはじめとするC-由来のB.O.Wとの戦闘が、シェリーの中のGウイルスに何らかの影響を及ぼしている可能性からの検査と処置、というお題目の下、この一年間の大半がラボとの行き来に費やされていたのだ。
また、タイミング悪く、クレアやレオン達は多忙を極めている時期だった。
シェリーがG保菌者だという事実は機密扱いだったため、事情を知った上で話を聞いてもらえるような同僚などもおらずーーー自らの孤独を否定できない状況は、シェリーをかつてないほど疲弊させていた。
だからこそ、今耳を傾けてくれるジェイクの存在は、さながら渇き切った大地に降り注ぐ雨のようだった。
沁み渡る優しい雨に、全てを委ね、洗い流したい。
そんな衝動が、シェリーから、内に溜まっていた言葉を引き摺り出していく。
「知ってるし、慣れてる筈なのに、身体を調べられてると…たまに怖くなるの。この先どれだけエージェントとして頑張ろうが、自分が誰かの役に立てることって…」
そこまで一気に言ってから、最後は震えるような声で呟いた。
「本当は…こんなことくらいしかないんじないゃないかって…」
「おい」
黙して聞いていたジェイクが不意に遮るように声を上げた。どこか怒気をはらんだ声だ。
シェリーは思わず口をつぐんだ。鋭い眼差しとぶっきらぼうに結んだ口元が、即座に脳裏に浮かぶ。
「いいか、よく聞け」
落ち着かせるように一旦区切る。
有無を言わせぬ雰囲気の中、ジェイクは続けた。
「一年前、お前が俺を救い出して、ワクチンを完成させた。それがどれだけ多くの人間を救うことに繋がった?どれだけの人間がそんなことを成し遂げられる?お前だから、できたんだ。俺も知ってるし、お前もわかってるだろう?そいつを忘れるな。卑屈になんかなるんじゃねえ」
「…」
まるで目の前にジェイクがいて、その体温までが感じられるような熱のこもった声に、思わずシェリーは目を閉じ頷く。
弾みで、涙が一筋頬を伝った。
「その検査ってのは…まぁお前の性格じゃあそもそも無理かもしんねーけど…そんなもん、嫌なら断っちまえ。お前はモルモットじゃねえんだ。もし、そんな当たり前の権利すら許されねえっていうなら、」
不意に言葉が途切れた。電波切れかと、シェリーは目を開けPDAの液晶を確認したが、そうではないらしい。
「ジェイク、」
どうしたのと続けようとした時、幾分ひそめた様な声が聞こえた。
「…そん時は俺がお前をかっさらいに行ってやるよ」
それは何か覚悟を決めた様な響きの呟きだったがーー生憎と、シェリーの耳には届いていなかった。
正にそのタイミングで、窓の下の路を、派手な排気音を立てながらバイクが走り去ったためだ。
盛大に邪魔をされ、眉根をしかめながら、シェリーはPDAを反対の耳にあてがった。
「え?ごめんなさいジェイク、何て言ったの?」
慌てて聞き返すが、返答が無い。
どうしたものかと思わず立ち上がって、おろおろとソファーの周りを歩き回る。
「…なんでも、ない」
ジェイクの幾分硬い口調の呟きがしっかり聞き取れて、シェリーは安堵しながら再びソファーに腰をおろした。
「…とにかく、科学者連中の都合なんざ、たまには無視しちまえよ。もっと自分がやりたい事を…自分自身を…大事にしてくれ」
染み入るような声音の心地良さに、シェリーは再び目を閉じて頷いた。
「うん…ありがとう…」
シェリーが受ける検査は、エージェントとして独り立ちしラボから出る時に課せられた条件の一つだ。
断ることが出来るかと言えば、実際にはかなり厳しい。
ジェイクもそれを重々知ってはいる筈だが、それでもあえて言ったのだろう。
再び涙が込み上げて来るのを感じて、シェリーは天井を見上げた。
(やりたい事や自分自身を大事にしろ…か…。きっと、もうずっと、誰かにそう言って欲しかったんだわ…私)
この数日自分を支配していた、暗い澱みへ引きずり込まれそうな感覚から解き放たれるのを、シェリーははっきり感じた。
「疲れてるのにごめんなさい、愚痴なんてこぼしちゃって」
さっきより明るさを取り戻した声に、ジェイクがふっと小さく笑う声が聞こえた。
「俺のセラピーは高いぜ。覚悟してろ」
意地悪く言うジェイクに、シェリーも思わず笑みがこぼれる。
そこからはまるで、潤った大地が草花で色づく理の様に、ごくごく自然に、言葉が口をついて出ていた。
「ねえジェイク」
「お次はどうした?」
「なんだか今、すごくあなたに会いたい」
ーーーーー。
再び沈黙が訪れた。が、嫌な感じではない。
これまでの電話やメールの中で、こんな事を言ったことは一度も無かったが、素直に口に出せたことに、シェリーはある種の満足感を覚えていた。
一方でジェイクはーーー
「…!!」
不意に電話の向こうで、ジェイクが現地語で怒鳴った。
どこか動揺した様子が珍しい。
「大丈夫?」
見えないもどかしさが一抹の不安を掻き立て、シェリーは思わず問いかけた。
「なんでもないっ」
ジェイクが答えたが、やはりどこか様子がおかしい。
それに対し、訝しむよりもなぜか笑いが込み上げてきて、シェリーは口元を押さえた。
「そればっかり」
「ほっとけ。それよりあれだ、もう困り事は打ち止めか」
「そうね、だいじょうぶ…」
言いかけて、シェリーはふと思い出したようにテーブルの上を見た。
横に倒れたショルダーバッグの中、小さな白い封筒が一つ、顔を覗かせている。
中身は既に目を通してあったが、正直その内容について考えるには、その時のシェリーは余裕が足りていなかった。
その為、今この瞬間まで忘れてしまっていたのだがーーー
(こんな事、ジェイクに言うの、変かしら)
シェリーが逡巡していると、再び気配を察したジェイクの声がした。
「あるんだな。特別延長サービスだぜ、言ってみろ」
シェリーは立ち上がって手紙を拾い上げると、二つ折りのカードを取り出して開いた。
(読み間違えかと思ってたけど、違うわね。これはーーー)
「うん…あのねジェイク」
カードの文字を今一度目で追いながら、シェリーは淡々と続けた。
「私、プロポーズされたみたい」
2.
「あ?」
ジェイクは腰掛けていたバイクから思わず立ち上がっていた。
ブーツが蹴散らした砂が薄い煙になって足元で舞う。
(プロポーズ、って言ったか、今)
ギリリと奥歯が鳴った。
全身の筋肉が一気に強張ったように、身動きが出来ない。
度肝を抜くセリフの後に、今度は予想もしない単語が飛び出てきて、漸く態勢を立て直したばかりのジェイクの感情をフリーズさせた。
会いたい、そう言われて、のたうち回りたくなるほど狂おしい熱さが全身に走り、間もなく訪れた思考停止(いや、ある意味では驚異的に回転していた)から立ち直るのは容易ではなかった。
だが、お次はプロポーズされた、だ。
今度は一気に頭から冷や水を浴びせられた様な、驚きと困惑が襲ってきた。
それだけでも御し難いところに、経験したことのない強烈な感情の波濤が押し寄せてくる。
怒りや焦燥ーーそれだけでは片付けられない、というより、それらを複雑怪奇に絡み合わせ、とびきり毒を含ませたようなそれの正体は、長く自分以外に執着してこなかったジェイクにとって、間違いなく初めて抱くものでーーそれが「嫉妬」であることに、容易には気付くことが出来なかった。
我に帰った時、既に通話は切れていた。
最悪のタイミングで、バッテリー切れを起こしていたことに気付いて、ジェイクは目を剥いた。
「なっ…シェリー!シェリー!!」
真っ暗な液晶をこの目で見たばかりなのに、叫ばずにはいられない。
当然応答などある筈もなく、苛立ちに任せてジェイクはPDAを握り締めた拳を振り上げたがーーーそれが地べたに叩きつけられようとした瞬間、自分を見つめる視線に気づいた。
少し離れたところに、兄弟と思しき二人の子どもが立っていた。
二人とも、大きな目をさらに大きく見開いている。手にはそれぞれ一つずつの林檎を持っていた。
ジェイクはぎこちない動きで腕を下ろすと、PDAをバイクに乗せたザックに突っ込もうとしてーーそこでザックの口が開いていて、中に幾つもの林檎が既に詰め込まれているのに気づいた。
背中に注がれる二つの視線は動かない。
ジェイクは大きく息を吐くと、兄弟の方へ向き直った。
「さっき言ったろ。もう林檎は充分だって。それともまたからかいに来たのか?」
言いながらザックから林檎を取り出すと、兄弟に歩み寄り、二人が来ていた上着のフードにごろごろと林檎を入れる。
「でもみんなの気持ち、だよ。ジェイク」
兄らしき少年が戸惑ったように言うと、隣の弟もこくこくと頷く。
ジェイクはその二つの小さな頭を乱暴に撫でると、交互に顔を見ながら言った。
「だったら、これはオレの気持ち、だ。世話になったな。…腹減ってるのに、無理すんじゃねえ。ほかのやつらと一緒に食え」
弟の方がわかりやすく笑顔を輝かせたので、ジェイクは思わず苦笑した。
「ありがとう、ジェイク!」
走り去る小さな背中を見送って、ジェイクは立ち上がった。
時折振り返って笑顔で手を振る二人に、早く行けとジェスチャーを送る。
輝くような笑顔が、ジェイクの中の誰かを思い出させた。ーーそう、シェリーだ。
「…!」
束の間なりを潜めていた感情が、再び鎌首をもたげた。
(くそ、どこのどいつだよ!)
ジェイクはザックの口を改めて締め、バイクに固定すると、素早く跨り、エンジンをかけた。
シェリーとの再会は、もう少し先だと考えていた。
だが、今のこの気持ちを抱え続けたまま旅を続けるには、ジェイクは若過ぎた。
砂嵐の予兆が空に見え、ジェイクは外套のフードを被ると、きつく紐を締めた。
「ジェイク?…あれ、切れちゃった?ジェイク?」
通話がと途切れるぶつりという切断音に、シェリーは慌ててPDAの画面を確認した。
通話時間が記録された画面は、間違いなく通話終了時に出るものだ。
すぐにコールしたが、電源が入っていない可能性を告げるアナウンスが流れる。
「…バッテリー切れかな」
首を傾げながら、自分もソファーの上にPDAとカードを置くと、立ち上る。
(もっと話したかったな)
そんな風に考えると、どこか胸の内がくすぐったくなる様な感覚がしたが、そこに鬱々とした気持ちはもう無い。
随分長く暗い感情に囚われていた気がしたが、解放される瞬間はこんなにも呆気ないものなのか。
(これもジェイクの言葉のおかげね)
いつもは素っ気無くすらある電話口のジェイクが、自分を励ます為に懸命に語りかけてくれた内容を思い出して、シェリーは胸が熱くなった。
思わず会いたいと初めて口にしたことも、後悔してはいない。
少々困らせてしまった感がある点は申し訳なく思ったが、どうしても伝えたかった。
シャワーを浴びて、シンプルなTシャツとスエットのショートパンツに着替える。
濡れた髪をどことなく不器用な感じでタオルで拭きながら、シェリーはふとソファーの上に開かれたまま置かれたカードを見た。
カードは、ラボでシェリーの検査にあたる研究員の一人から手渡された物だった。
彼がラボに来たのは、シェリーが10代を無機質で冷たい部屋の中で終えようとしていた頃だ。
痩せた長身に乗ったラファエロの天使のような容貌のアンバランスさが、少しばかり不気味な印象だった。
ダークブラウンの短い癖っ毛、薄い眉と唇。その時点で恐らく20代後半といったところか…実際は不明だ。
毎日の様にラボで顔を合わせる度、頭ひとつ飛び出た長身のお陰で、自分をひたと見つめる姿はしばらく目立った。
名前はジョセフ・エルメス。
だが、容姿と名前以外、シェリーが彼に関して知るものは無い。
会話らしきものを交わした記憶もない。
もっとも、シェリーと会話するようなスタッフはごく限られていたから、検査チームにいる人間の殆どとの関係性が似たようなものだった。
個人的な事は一切知らないし、シェリー自身もいつしか知ろうともしなくなっていた。
物言わぬ彼らはラボの検査機器の一部であり、ジョセフもまた同様であった。
それ故に、カードを渡された時はひどく驚いた。
初めて聞くその声、カードを書くなどというアナログで人間じみた行為、ガラス越しではない至近距離と、医療用グローブを着けていない青白い生身の手によって、その個性的な容姿を持ってしても風景の一部となりつつあったたジョセフは、シェリーに一個人として自分を認識させる事には一先ず成功した。
カードには、ラボに来た時からずっと見守ってきたこと、エージェントになったシェリーの身をずっと案じていたこと、その事で、シェリーを愛している気持ちに気付いた事…などが書いてあった。
そしてその結びがこうだ。
「僕たちには今まで会話すらなかったが、僕は誰よりも君を知っている自信がある。君の身体に理解もある。僕がいれば、君は何も恐れる事は無くなる。だからーーー僕の妻になって欲しい。」
おおよそ理解し難い内容だと思った。
思い出す限り、古い人形を思わせる暗い瞳に、愛情などといった類のものを見出せたことはない。
シェリーは首を振って、ベッドに向かった。
愛の告白について考えるには、ジョセフはあまりにも存在が稀薄で、実感が湧かなかった。
読書灯の穏やかな光を見つめながら、中途半端に終わったジェイクとの会話を思い出す。
ジェイクはどう思ったかな、と考えたところで、ありえねーだろと鼻で笑うジェイクが浮かんだ。
(…そうよね、私もそう思う)
瞼の裏のジェイクに同意しながら、 PDAを手に取り、メールを立ち上げると、少し考えてから、タタタと手早く液晶を叩く。
このメールをジェイクがいつ見るかの予測はつかなかったが、さすがにあのまま終わるのは些か無責任な気がしたのだ。
PDAをサイドボードの上に置き、読みかけの本に手を伸ばす。
と、着信音と共に明滅する光がシェリーの視界に飛び込んできた。
ジェイクかもしれないと咄嗟に思い、シェリーは画面を見る。
が、そこには全く覚えの無いナンバーが表示されていた。
「誰…?」
シェリーの番号を知る者は多くはない。こんな時間にかけてくる相手はさらに少ない。
間違い電話だろうか。思案する最中も、着信音は鳴り続けている。
仕方なく、通話ボタンをタップした。
「はい」
PDAを耳に当てつつ、繋がった向こうの様子に集中する。
「…シェリーだね?僕だ」
男の声がして、通話が始まる前より強い緊張が走った。
頭の中を瞬時に様々な疑問が駆け巡り、シェリーは目を細めながら呟く。
「…エルメス博士?」
「ああ。ジョセフ、でいい」
「どうしたんですか、博士」
その名をあえて呼ばずにシェリーは問いかけながら、カードを置いてきた方向を見る。
あの内容に関わる電話だというのは確かだろうーーそう考えていたが、予想はジョセフの次の言葉で裏切られた。
「遅くにすまないね。実は先日の検査の中で、データがうまく取れなかったものがあって、再検査が必要なんだ。急ですまないが、明日ラボに来てくれないか。職場の方には、こちらから伝えておくから」
「再検査…ですか」
自然に声のトーンが落ちる。
そんなもん、嫌なら断っちまえ。お前はモルモットじゃねえんだ。
先程のジェイクの声が不意に蘇り、シェリーの心臓がドクンと大きく脈打った。
「明日の10時頃、僕が迎えに」
「あの」
ジョセフの言葉を遮って、シェリーは声を上げた。
この後自分がやろうとしている初めての行為に、心拍数が急激に速度を増している。
しかし、決心はついていた。
「行けません」
初めて母に反抗した時を思い出す。
あの時と全く同じで、これは大きな挑戦だ。
そして怯んだ方が負けるのも知っている。
「…ええっと…?」
全くの想定外の言葉に、自分の聞き間違いを疑うような調子でジョセフが呟く。
「明日は、どうしても外せない仕事があるんです。だから行けません」
「だから、職場にはこちらから」
「私の仕事です。予定をコントロールするのも仕事のうちなんです。すみませんが、別の日にお願いします」
言えたじゃねえか。上出来だ。
そんな声が聞こえたような気がした。
燃えるように顔が熱い。
相変わらず鼓動も早かった。だが、胸の空くような思いに、無意識に笑みが漏れた。
ーーこの時、シェリーがここまでの緊張状態になければ、ドアが開く僅かな音に気付けていただろう。
歩み寄る気配を察し、枕の下の銃を取り、振り向きざま銃口を向けることも出来たろう。
だが、最早それを後悔する余地は無かった。
シェリーのベッドルームはリビングからの続き間になっている。
その間口に向かって背を向けた状態でベッドに座っていたシェリーは、右肩の裏側にぶつりと何かが突き立つのを感じ、目を見開いた。
小型の注射器のような物が視界の端に見える。
と、キュゥンという小さな高音と共にピストン部分が動いた。
何かが、先端から流れ込んでくる感覚があった。
咄嗟にそれを抜こうとシェリーは腕を伸ばす…が、その腕は肩に届く前に完全に動きを止めていた。
急速に全身の力が抜けていく感覚は、ただの麻酔などとは違う。シェリーを恐怖が襲った。
(何…何を打たれたの…!?誰が…)
支える力を完全に失った上体がベッドに倒れ込んだ。
シーツにはね返る自分の呼吸がどんどん浅くなっていくのを感じる。
「うなじの部分を狙ったのに。やっぱり銃は苦手だ」
ため息と共に呟く声が聞こえた。
覚えのある声だ。…そう、ついさっきまで、自分が話していた…
「本当はもっとごく自然な形でやりたかった。君のせいだよ、シェリー。君が"反抗"なんてするから。おかげでちょっとばかり予定が変わったが…まあいいさ」
最早思考も回らない。
わかるのは声の距離が近くなったことと、頭を撫でられ、頬に触れられる微かな感触だけだ。
だがそれも感じたそばからあやふやになっていく。最早息をしているのかさえ判らない。
「大丈夫…君を殺したりしない。そんなことするもんか」
物言わぬ人形になったシェリーを、声の主ーージョセフ・エルメスが横抱きに抱え上げた。
薄闇に包まれていく視界に、一瞬嬉しそうに顔を歪めたジョセフが映り、それがシェリーが意識あるうちに見た最後の光景になった。
「さあ行こう、秘密の花園が待ってる」
3・
シェリーとの電話から二日、ジェイクは夜通しバイクを走らせ都市部に入った。
アメリカへの航空券を買う為には手持ちが足りず、バイクと銃を一丁手放すことになったが、躊躇う理由は無かった。
あれこれと走り回って、最終的にようやく機能を取り戻したPDAを手に出発ゲートのベンチに腰を下ろした時は、さすがに疲労困憊の状態だった。
背もたれに体を預け、天井を見上げる。
「私、プロポーズされたみたい」
あれから幾度となく頭の中で勝手に再生されるシェリーの声がまた響いた。
本当なら、思い出すだけで痛くなるほど愛おしいのに、これは違う。
胸を掻きむしりたいような苛立ちに苛まれる。
舌打ちして体を起こしーーようやく自分が手に持ったPDAに気付いた。
と同時に、受信メールの存在を知らせる小さな灯りにも。
ジェイクにメールを寄越すのは、今のところシェリーただ一人だ。
「…!」
ジェイクは思わず両手でPDAを握り締め、光に触れた。
ジェイク、さっきは変な所で終わっちゃってごめんなさい。
プロポーズって言っても、どこまで本気かわからないの。
名前くらいしか知らないラボの研究員だから。
確かに向こうは私をずっと昔から知ってはいるけど…。
そんなことより、次は私ももっといい報告できるように頑張るね。
それまでどうか、気をつけて。
あっさり「そんなことより」と流し、すっかりいつもの調子で締め括られた文章に、無意識に笑みを浮かべる。
が、やはり気になるのはこの一文だ。
「名前しか知らないヤツからプロポーズ?」
思わず呟きながら、片手を顎に添えて思案する。
正確な状況が分からない以上確定的なことは言えないが、シェリーの言葉通りで考えれば、確かに真意を測りかねるだろう。
その類の経験値がとことん低そうなシェリーなら尚更に。
だが、結婚云々の話が何かのポーズだったとしても、この相手がシェリーに興味を抱いて接近しようとしているのは確かだと感じる。
シェリーが相手にすることは無いだろうが、最早そういう問題ではなく、単純に、純粋にジェイクはそれが気に食わない。
それだけで、改めてジェイクにとって渡米する理由としては充分と言えた。
不機嫌な獣のように唸るジェイクの手の中で、その時不意にPDAが明滅し甲高い音が響いた。
シェリーかもしれないと咄嗟に思い、ジェイクは画面を見る。
が、そこに表示されている「H」の文字を見て、あからさまに自分が落胆するのを感じた。
HはHERO(英雄)、つまりレオン・S・ケネディの事だ。
ある時レオン本人から着信があり、半ば強制的に登録する羽目になったその番号を薄目で睨むと、仕方なくといった様子でジェイクは応答した。
「何の用だ」
「よう、久しぶりだな。相変わらずの調子…と言いたいが、若干ご機嫌斜めに感じるのは気のせいか?」
軽やかな口調と裏腹に、どこか暗いトーンのレオンの声が聞こえた。
「もう二日寝てねぇ。くだらねえ世間話なら、切るぜ」
苛立ちを隠さずジェイクは返すと、そのまま通話を切断しようとする。
「待ってくれ、用件はシェリーの事だ」
気配を察したレオンの慌てた声に混じったシェリーという"音"に、ジェイクの指が止まる。
「シェリー?シェリーがどうした」
無意識にベンチから立ち上がりつつ問いかける。
嫌な予感がする。傭兵時代から培った勘がジェイクにそう告げていた。
「落ち着いて聞けよ。…シェリーが、いなくなった」
想像より悪い形で予感的中し、ジェイクは絶句した。
「無断欠勤の上、オフィスにもアパートにもいない。財布やIDは置きっぱなし…携帯だけ持って行ったみたいだが、コールしても繋がらないーー」
そこまで言って、レオンは何かに気付いたように言葉を切った。
「お前、さっき二日寝てないって言ったな。最後の退勤時刻や、アパート付近の防犯カメラの映像から推測すると、シェリーが消えたのは二日前の夜だ。こいつは偶然か?」
レオンの鋭い問いかけに、ジェイクは最後に話した通話を思い出した。
あの時のシェリーは、落ち込んだ様子こそあったが、その身に迫る危険を感じさせるものはーーー
そこまで考えて、ジェイクの中をちらりと過ったものがあった。
まさかな、とすぐに打ち消しかけたが、しかし何か思い当たるかと言われれば、それしかない。
「ジェイク、おい、聞いてるのか?」
レオンの声に、ジェイクは我に帰った。
レオンは"できる男"だ。僅かな可能性だとしても、伝えることで、この窮状を変える手助けになるかも知れない。
「シェリーが検査を受けてるラボの研究員の中に、どうもあいつにご執心な野郎がいるらしい。昔からシェリーのことを知ってるらしいから古参の人間だろうな。念のため、調べてみてくれーー頼む」
一気に言って、奇妙な静けさに気付く。
通話は続いている。微かに苛立ちを感じて、ジェイクは眉をひそめた。
「おい、聞いてんのか英雄さん。こっちはもうすぐ出発の時間だ。着いたら連絡するからそれまでに頼むぜ」
「出発?着いたらって、お前、もうアメリカに向かってるのか?」
レオンからの指摘に、ジェイクは今度は盛大に顔をしかめる。
と、ちょうどその時搭乗口が開いた。
「じゃあな」
短く言って、向こうの返事を待たずに切ると、ジェイクは足早に搭乗口へ向かった。
機内へ乗り込む間、念のためシェリーの番号にコールしたが、電源が切れていた。
いや、「切られた」のか。
予定通りに離陸した旅客機の中、アメリカへの道のりは、ジェイクにとってこれまでのどんな旅の中でも飛び抜けて苦痛に満ちたーーありとあらゆる最悪の想定に無限に襲われ続ける、拷問の様な時間になった。
4.
気がつくと、シェリーは検査着で、ラボの冷たく硬い台の上にいた。
見覚えのある天井、壁、床、計測装置から聞こえる一定リズムの電子音。
妙に薄暗いことを除けば、確かにそこはいつも検査を受けるラボの一室だった。
起き上がろうとして、しかし全身に全く力が入らないのに気づいた。
指先くらいは動くのか?感覚が無いので分からない。
瞳だけが、辛うじてその呪縛の外にいた。
それでも焦れるほどに緩慢な動きに甘んじつつ、シェリーは必死で周囲を見る。
僅かに視界の端で動くものがあった。
白衣が翻っている。
いくつかの装置の間を忙しなく行き来しながら、モニターをチェックしている白衣の背中。
シェリーは懸命にその背中に目を凝らす。
が、そうしていて訪れた感情は、シェリーを大いに戸惑わせた。
そんなもの、今感じる筈が無い。ーー懐かしさなど。
だが、否定しようとすればする程、それは確信に近づいていった。
(嘘よ…だってあなたは…もうこの世にはいない筈…あなたは…あなたの最後は…)
強烈な吐き気を覚えて、シェリーの視界が歪む。
ねじくれた灰色の世界で、白衣の人物がゆっくり振り返った。
「やあ、シェリー」
"人の形"をしたその姿を最後に見たのはいつだったか。
しかし間違い無く、それはシェリーの父、ウィリアム・バーキンだった。
「パ…パ…」
思わず呟いたが、その声はシェリーの内に留まったまま表に出ることはなく、ただ唇が微かに震えたのみであった。
そんな娘を、ウィリアムは目を見開いて覗き込んでいる。
その顔が、血色が良いのを通り越して、異常に紅潮していることにシェリーは気付いた。
ぬらりと光る汗が、額や首をいく筋も伝って、シャツの襟を濡らしている。
(パパは死んだ。これは夢よ。これは夢)
一握の砂のように残った冷静さを頼りに呪文の如く唱えていたが、同時に強く感じていた。
このままでは、あの光景をまた見る事になる。父親が化け物になる瞬間を。
次第に粘着くような恐怖がシェリーの全身を覆い始めていた。
早く、早く目を覚まさなきゃ。
震えることすら出来ない体を動かそうと半狂乱なシェリーに、ウィリアムが一歩、また一歩と近づいてくる。
「お前は奇跡だ。"G"を内包しながら、知性と美しさを保ち、驚異的な自己修復能力も持ち合わせている。私の研究は完成ではなかった…お前がいれば…もっと素晴らしいものが出来上がる…」
うわ言のように呟く口元が、突然ぱちゅんと奇妙な音を立てて弾けた。
裂けた皮膚の隙間から、血と体液が混ざり合いながら流れ出るが、ウィリアムの恍惚とした表情は変わらない。
シェリーは声にならない悲鳴を上げた。
無情にも、ただ「見る」ことしか出来ない娘の前で、ウィリアムは急速に変わり始めた。
半身が膨れ、弾け、裂けていく。
そしてーーー肩口から胸にかけて、一際大きく膨張したかと思うと、くぐもった水音と共に皮膚と肉が四散し、巨大な目がそこに現れた。
うねるように隆起と収縮を繰り返す腕が、あちこちから潮を吹く貝の様に濁った体液を吐き散らかす。
「受け入れろ、シェリー。こんなものは進化の過程に過ぎない。お前はもっと…もっと…」
それは最早父の声では無かった。
シェリーの瞳から涙が溢れた。
「いや!!進化なんていらない!!そんな姿になりたくない!!!」
声に出ずとも、叫ばずにはいられない。
「助けて…クレア…レオン…ジェイク…!!」
その部屋は、丸ごとが深い水底の様だった。
仄暗い空間に据えられた巨大な水槽の中に、一糸纏わぬ姿でシェリーは眠っている。
四方から伸びたチューブがシェリーの四肢に挿し込まれ、そこでは規則正しい循環が静かに行われていた。
無表情で緩やかに上下に漂うシェリーの口元から、僅かな気泡が上がる。
その時、ほぼ無音の空間に、硬い音が響いた。
ジョセフが、ベージュ色の作業着のジッパーを下ろしながらりながら水槽に歩み寄る。
一仕事終えた充足感を纏って、己が手に入れたものを感慨深げに眺める。
「君はもっと素晴らしいものになれるんだ。
目覚めの時が、僕も待ち遠しいよ…シェリー」
水槽に触れ、指先でシェリーの輪郭をなぞりながら、ジョセフは歪な笑みを浮かべた。
再び、シェリーの口元から気泡が立ち上がる。
しかし、彼女の悲鳴は誰にも届いてはいない。
今は、未だ。
To be continued...
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